『みやぎ会津会』は、宮城県在住の会津出身者や会津に縁のある方が集う同郷会です。
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R7.5.6更新![]() 伊佐須美神社(福島県大沼郡会津美里町)の御社殿再建奉賛会をご紹介します。 伊佐須美神社は、『古事記』にも記される「会津」地名発祥の伝承社として、古くより信仰されています。伊佐須美神社の御社殿は、御造営以来長い歴史の中で、度重なる災害により御社殿を焼失しており、その度に公民一体となり御再建が行われてきましたが、現在も平成20年10月の不審火により、本殿、幣殿、拝殿、神楽殿、橋廊、授与所等が焼失したままです。伊佐須美神社では、令和12年中の本殿。幣殿、拝殿竣工を目指して御再建事業を行っています。ぜひ、下記リンク先をご確認いただき、御奉賛に協力をお願いします。 伊佐須美神社公式ホームページ(外部サイトへリンク) |
R7.5.6更新![]() 「令和7年度事業計画」を公開しました。 |
R7.3.20更新 「会津の風景(投稿写真)」を公開しました。 |
R7.3.17更新 公式ホームページをリニューアルしました。 |
みやぎ会津会への入会をご希望の方は、下記①~⑦の必要項目を記載の上、下記メールアドレスまで送信願います。 ①氏名、②ふりがな、③住所、④電話番号、⑤会津の出身地(または会津との縁)、⑥生まれた年※任意、⑦会社名・勤務先※任意 【申込先】 jxrcz76194@yahoo.co.jp (個人情報について) 上記①~⑤の個人情報は案内状等の送付以外には使用しません。また、⑥生まれた年は敬老表彰以外には使用しません。⑦会社名・勤務先は本会の運営の参考にしています。 (年会費について) 年会費は3千円です。入会の翌年度から納付をお願いします。(4月開催の総会、交流・懇親会に合わせて入会する場合は当年度分から納付をお願いします。) (ハガキでの入会申し込みについて) 入会申し込みは、原則、メールでお願いします。メール以外(ハガキ)での申し込みを希望する場合は、〒980-0803仙台市青葉区国分町2-2-2東芝仙台ビル4階(株)経営戦略機構内みやぎ会津会事務局まで申し込み願います。 |
令和7年4月5日 第18回総会、交流・懇親会(ホテルメトロポリタン仙台)終了しました |
![]() 令和7年6月7日~8月 京都会津会法要(京都市) |
令和7年6月28日~29月 斗南会津会155年祭(むつ市) |
令和7年7月11日 第33回例会(ビアパーティ)(仙台市) |
令和7年10月3日 第34回例会(芋煮会)(仙台市) |
令和8年1月30日 第35回例会(敬止会)(仙台市) |
隔月第二水曜日(原則) 二水会 |
令和7年4月5日(土)「第18回総会、交流・懇親会」を開催しました。 |
仙台市のメトロポリタン仙台で「第18回総会、交流・懇親会」を開催しました。運営の中心となる事務局メンバーの交代後、初となる総会開催でしたが、多くの会員の皆様に楽しんでいただいた一方、式次第の進行に時間を要し、久しぶりに顔を合わせた会員同士の自由な御歓談の時間を十分に確保できなかったのは今後の課題でした。会自体は、今年も会津松平家松平保久第十四代当主を初めとした多くの御来賓を招いて盛大に開催されました。 |
![]() 須佐会長による会長挨拶 |
![]() 宮内庁・書陵部編集課・主任研究官 白石 烈 氏 記念講演「幕末の会津藩と西南諸藩の連携」 |
![]() 記念講演の様子 |
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![]() 会津松平家松平保久第十四代当主の御挨拶 |
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![]() 郡和子仙台市長の御挨拶 |
![]() 長谷川史彦特別顧問による乾杯 |
![]() 会津の各市町村長の御挨拶 |
![]() 会津の各市町村議会議長の御挨拶 |
![]() 山浦正井副会長による閉会の挨拶 |
遠藤敬止は、慶応義塾に学び渋沢栄一に見い出されて第一国立銀行に勤務する。明治11年第七十七国立銀行設立にあたり、渋沢の命により派遣され、教授役となって設立の指導にあたる。明治14年、30歳にして第七十七国立銀行第2代頭取となり、逝去するまでの通算約23年間頭取を務めた。 明治23年、鶴ヶ城払い下げの議に際し私財を投じて旧藩主松平家に献納した。昭和9年に鶴ヶ城跡地が国の史跡として指定され、跡地すべてが残っているのは遠藤敬止の献身的な浄財申し入れがあってこそといわれている。 嘉永4年、会津藩士遠藤清直の長男として江戸会津藩邸に生まれる。若くして才能を認められ、幕府開設の洋学教育施設・後の東京大学の前身である開成所に入学、英語を学ぶ。 18歳のとき鳥羽伏見の戦いにおける幕府軍敗走の報に接し、会津軍に加わり各地を転戦、身に数か所の傷を負う。鶴ヶ城に入り籠城戦を戦い、開城とともに幽閉され猪苗代から江戸増上寺に移される。 明治2年、赦免され、早稲田北門舎の英語教授補助をして生活の足しにし、赤貧のなか勉学に励んだ。明治3年、20歳で久留米中学の英語教授に招かれる。翌年上京し、「国家富強には商業の発達が必要」として慶應義塾に入り、簿記、経済、欧米商業の実際を学んだ。 明治6年、大蔵省銀行事務講習所の創立に伴い選ばれて講師となり簿記実習の標本、為替手形類の標本を制作、「銀行実験論」を朋友とともに共訳するなど活発な活動を開始した。 渋沢栄一の命による仙台赴任後は、明治12年設立の宮城商法会議所(現仙台商工会議所)の初代会頭に就任、爾後、第七十七国立銀行頭取を勤めながら幅広く経済活動を展開、奥州銀行同盟の発足、塩釜水産会社・奥州水産運輸会社の立ち上げなど、東北経済会の発展に大きな功績を残した。會津銀行(現東邦銀行)創立に際しては発起人の一人として指導にあたり、創立後は相談役に就いている。 第七十七国立銀行の株式会社への改組に奔走してこれを成し遂げた明治31年2月、17年間勤めた第2代頭取を辞任するも同年9月第4代頭取に就任、㈱七十七銀行の経営立て直しに努め、経営基盤を固めた。 この間遠藤敬止は、経済界だけにとどまらず、衆議院議員7期、貴族院議員1期を務め、広く政財界で活躍した。その事績は、渋沢栄一や大倉喜八郎(大倉財閥の創始者)ら明治の経済人90名の伝記を収録した「商海英傑伝(明治26年刊行)」第2編にも収録されている。 甦生白虎隊士飯沼貞雄との交流もあったようである。弟の嘉龍二は白虎隊寄合1番隊士で熊倉の戦いで戦死、その墓は、飯盛山白虎隊19名の墓に向かって右側にある戦死者31名の墓の中にある。少し離れた個所に遠藤敬止による追悼の撰文碑が立っている。 明治23年、陸軍省から旧会津藩主松平家に鶴ヶ城払い下げの議が出されたとき、遠藤敬止は「この城跡は戊申の逆境に当たり弾煙硝雨の間に幾千の魂魄を留めし古戦場なれば、これを保存して千古の記念になさざるべからず」として私財を投じ、旧藩主松平家に献納した。 この浄財申し入れの事実が昭和44年に発表され、明治100年にあたる昭和45年10月、鶴ヶ城北出丸に「頌徳碑」が建立された。揮毫は松平家13代の故松平保定氏。 昭和50年12月、遠藤敬止顕彰会が発足、以後毎年命日の6月15日に碑前祭を行い遺徳を顕彰している。 七十七銀行頭取在任中の明治36年6月胃癌のため逝去。54歳の若さであった。 墓は仙台市北山新坂町・浄土宗充國寺の本堂裏手にあり、墓の裏面には経歴撰文が刻まれている。
墓に向かって左側には真新しい「遠藤敬止翁供養塔」が建立されており、裏には「遠藤敬止翁百年忌法要記念 平成15年6月5日 遠藤敬止顕彰会、仙台商工会議所、㈱七十七銀行、在仙福島県人会、㈱東邦銀行」と刻されている。 【参考文献】 |
![]() 参考文献(1) |
![]() (鶴ヶ城北出丸の頌徳碑) |
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![]() (頌徳碑 碑文) |
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![]() (七十七銀行寄贈の頌徳碑説明板) |
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![]() (供養塔と墓石) |